アリューシャン潜水艦作戦

 アリューシャン列島を巡る戦いは、ミッドウェー海戦に付随するもので、戦略的な重要性はあまりありませんでした。一方、アメリカ領土の一部を占領するということで、心理的な効果を持ち合わせていました。しかし、戦局が悪化すると、他の地域に戦力が回され、アリューシャン方面には戦力は展開されませんでした。そこで活躍したのが、潜水艦です。ここでは、アリューシャン方面における潜水艦作戦を振り返ります。


アリューシャン列島の位置付け

 アリューシャン列島は、アメリカのアラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて延びている半島で、約1,930キロメートルにも渡っています。
 1942(昭和17)年6月、日本軍はAL作戦を発動します。この作戦は、アリューシャン列島の重要拠点であるダッチハーバー基地に空襲を実施し、アッツ島、キスカ等を占領下に置きました。
 元々、この方面の作戦については、開戦時から考慮されていましたが、他の方面での作戦に戦力を割かなければならないこともあり、作戦は実施されませんでした。しかし、1942年に入り、太平洋におけるアメリカの空母の活動が活発になると、それを防ぐ手立てが必要になります。こうした中で生まれたのがミッドウェー作戦でした。そして同時にアリューシャン列島で作戦を行うことで、ミッドウェー作戦にアメリカ空母を誘き出すという考えが出されます。作戦が成功し、アリューシャン列島西部に拠点を設ければ、アメリカの空母の進出を防ぐことが出来るとも考えられました。
 AL作戦は成功しました。日本軍はキスカ島やアッツ島を占領し、アメリカ領土を占領下に置くことに成功します。しかし、肝心のミッドウェー作戦は失敗に終わりました。日本軍にとっては、キスカ島やアッツ島はミッドウェーを占領してこそ活かせる島々でした。しかし、ミッドウェー作戦が失敗し、ここが宙に浮いてしまうことになったのです。


アッツ島の戦い

 日本軍にとっては重要でなくても、アリューシャン列島はアメリカの領土であり、アメリカ側にとっては領土を占領されているという心理的な効果を与えます。そのため、占領直後から、アメリカ軍はこの地域での反撃に出ます。
 一方、日本海軍にとっては、この地域に戦力を割くことはできません。ソロモン方面ではガダルカナル島を巡って、日米の死闘が展開されており、海軍もこれを支援していました。そして、中部太平洋でアメリカ海軍を防がなくてはなりません。そのため、アリューシャン方面に戦力を割く余裕はありませんでした。
 アリューシャン列島をどう扱うのか、日本側も意見がまとまりませんでした。とりあえず、アリューシャン列島の各島で飛行場建設や陣地強化を行い、アメリカ軍を迎え撃つ準備を固めようとします。しかし、アメリカ軍は占領されている島々の奪還へと動き、戦力を集中させていきました。
 1943(昭和18年)初頭になるとアメリカ軍はアッツ島への圧力を強めていきます。航空機や潜水艦による封鎖の他に、水上艦艇による襲撃も行うようになりました。2月になると、アリューシャン列島の一つアムチトカ島にアメリカ軍が飛行場を完成させ、ここから出撃する戦闘機や爆撃機の脅威にもさらされるようになります。3月にはアッツ島とキスカ島に兵員を運ぶ輸送船団を伴った第5艦隊とアメリカ艦隊が遭遇し、第5艦隊が幌筵に引き返しました。これ以降、水上艦艇による輸送も困難になり、潜水艦による輸送が行われるようになります。
 一方、日本海軍にとっては、この地域に戦力を割くことはできません。ソロモン方面ではガダルカナル島を巡って、日米の死闘が展開されており、海軍もこれを支援していました。そして、中部太平洋でアメリカ海軍を防がなくてはなりません。そのため、アリューシャン方面に戦力を割く余裕はありませんでした。
 アリューシャン列島をどう扱うのか、日本側も意見がまとまりませんでした。とりあえず、アリューシャン列島の各島で飛行場建設や陣地強化を行い、アメリカ軍を迎え撃つ準備を固めようとします。しかし、アメリカ軍は占領されている島々の奪還へと動き、戦力を集中させていきました。
 1943(昭和18年)初頭になるとアメリカ軍はアッツ島への圧力を強めていきます。航空機や潜水艦による封鎖の他に、水上艦艇による襲撃も行うようになりました。2月になると、アリューシャン列島の一つアムチトカ島にアメリカ軍が飛行場を完成させ、ここから出撃する戦闘機や爆撃機の脅威にもさらされるようになります。3月にはアッツ島とキスカ島に兵員を運ぶ輸送船団を伴った第5艦隊とアメリカ艦隊が遭遇し、第5艦隊が幌筵に引き返しました。これ以降、水上艦艇による輸送も困難になり、潜水艦による輸送が行われるようになります。 
 こうした中で5月12日にアメリカ軍がアッツ島に上陸します。第五艦隊は重巡洋艦「摩耶」を中心とする艦隊と、アリューシャン方面で輸送任務についていた潜水艦をアッツ島に向かわせました。水上艦隊は霧のために引き返しましたが、5月13日に「伊31」はアメリカ戦艦「ペンシルベニア」を雷撃しますが、命中せず、駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈されました。「伊34」も爆雷攻撃で損傷し、避退しました。
 日本海軍はアッツ島救援を考えますが、悪天候により、何度も出撃が延期されたり、出撃しても航行困難になったりしました。そうこうしているうちにアッツ島守備隊は5月29日に全滅します。連合艦隊は第五艦隊に潜水艦による残留者収容を命じます。「伊24」がアッツ島に向かったが収容に失敗し、6月11日に撃沈されました。


キスカ撤退作戦

 アッツ島にアメリカ軍が上陸すると、キスカ島の扱いを決める必要が生じました。キスカ島の方がアメリカ本土に近いため、日本軍はキスカ島に先に上陸すると考え、戦力を集中させていました。しかし、先にアッツ島に上陸されたため、キスカ島は孤立してしまいます。
 アッツ島での戦闘が行われていた5月21日にアリューシャン列島の放棄が決定されます。キスカ島からの撤退が決定したわけですが、制海権や制空権はアメリカ軍に握られており、しかもアメリカ軍の勢力下に孤立しているキスカ島からどうやって撤退させるかが重要な問題となります。
 ここで選択されたのが潜水艦です。制海権、制空権を奪われた中で水上艦による救出は困難と見られていました。そして、当時の日本海軍はソロモン方面の作戦で駆逐艦を消耗しており、これ以上消耗したくなかったという事情もあります。
 5月30日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は、キスカ島からの撤退作戦「ケ」号作戦実施要領を発令します。参加兵力は第一潜水戦隊の潜水艦15隻です。5月27日、「伊7」潜水艦はキスカ港に入り、60名を収容して、帰途につきました。6月10日の時点で、キスカ島には、陸軍2,429名、海軍3,210名、合計5,639名が居ました。
 潜水艦による撤退作戦は困難を極めます。アメリカ軍の哨戒網に引っかかり、「伊24」、「伊9」が撃沈されます。「伊7」は損傷した後、応急修理を行いましたが、再びアメリカの駆逐艦に捕捉され、キスカ島で擱座して放棄されます。
 哨戒網が厳重であり、損害も大きいことから、6月23日潜水艦による輸送作戦の中止が発令されます。この作戦によって、820~870名の兵員の撤退と兵器弾薬125トン、糧食106トンのキスカ島への輸送に成功しました。
 6月28日にキスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦が発動されました。今回は水上艦艇によるものでしたが、潜水艦隊も監視や哨戒という形で関わることになります。作戦では、霧に紛れて艦隊がキスカ島に突入し、素早く兵員を収容しなければなりません。そこでは、敵と遭遇しないように敵情の監視や気象情報が不可欠でした。潜水艦はその任務を負った訳です。
作戦は見事に成功し、7月29日に艦隊はキスカ湾に突入し、キスカ島守備隊を全員収容して帰還しました。この作戦は、後に映画にもなりますが、成功の陰では、潜水艦の活躍があったのです。



主要参考資料
勝目純也『日本海軍潜水艦戦記』イカロス出版、2021年。

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