三式中戦車チヌ―後手の積み重ねの集大成

 三式中戦車チヌは、第二次世界大戦の後期に登場した日本帝国陸軍最後の量産型戦車です。その性能は日本戦車に限ってみれば最強のものでしたが、歴代の日本軍戦車と同じで全てが後手に回って完成した時代遅れの戦車でした。 この記事では、三式中戦車の開発を追いながら一部では「アメリカ軍のM4シャーマンに対抗し得た」と言われる実力について解説します。

あくまで後継戦車への繋ぎのためだった三式中戦車

 日本陸軍の戦車は、太平洋戦争開戦時まで九七式中戦車に代表される「歩兵支援用車両」であり、対戦車戦はほとんど考慮されていませんでした。
 しかしノモンハン事件の戦訓やヨーロッパ戦線での戦車戦の影響から、新型戦車の研究・開発は避けがたいと判断されますが、まず行われたのは九七式中戦車へ47mm戦車砲を搭載するというマイナーチェンジです。 ここからは後手を踏みながら三式中戦車の登場まで至る道のりを見ていくことにしましょう。

★対戦車戦用の新戦車開発とその遅れ

 太平洋戦争開戦時に連合国側の主力戦車だったのはM3軽戦車であり、ノモンハン事件で対峙したソ連軍の主力もBT-7やBT-5などの軽戦車でした。全くの対症療法といえる計画ですが、これらを負かす戦車として開発が始まったのが一式中戦車チヘです。
 これとは別に、他国が進める戦車の長砲身化や重装甲化に対応するため1941年から研究が始まったのが「チト」で、後に四式中戦車と呼ばれるものです。チトは日本陸軍としては初めて最初から対戦車戦を考慮した戦車でした。
 ところが一式中戦車すら資材と予算の不足から開発が遅れ、量産が始まったのは1944年2月のことで、前線では九七式中戦車が主力として戦わざるを得なかったのです。

★一式中戦車でも通用しないことが明らかに

 一式中戦車の主砲は、改良型の九七式中戦車でも採用された47mm戦車砲です。生産が遅々として進まないなか、アメリカ軍に強敵が出現してしまいます。M4中戦車(シャーマン)です。
 このとき日本軍の前に現れたのは75mm砲を搭載したM4A2(アメリカ海兵隊)やM4A1(アメリカ陸軍)でしたが、日本軍の火砲はほとんど歯が立たず、日本軍の戦車は易々と破壊される有様でした。
 このときチト(四式中戦車)やチリ(五式中戦車)は開発途中で目途も立っていなかったことから、一式中戦車の車体はそのままに主砲だけ強化することが構想され、「チヌ」とし開発されました。これが三式中戦車です。

「とりあえず大口径の主砲にしました」三式中戦車

 三式中戦車の画像を見ると一目瞭然ですが、車体に比べて異様に大きな砲塔が特徴的です。これというのも一式中戦車の車体に「九五式野砲もしくは九〇式野砲を搭載する」ことが前提だったからです。
 最終的には砲身命数は短いながらも高初速な九〇式野砲を搭載しましたが、駐退複座機(野砲を発射したとき衝撃を吸収する装置)が砲塔内に収まりませんでした(砲身の下部に見える支えのような部分)。
 また野砲をそのまま積んだだけなので発射装置がなく、野砲と同じようにヒモを引いて発射するなどの不都合な点には目をつぶっています。M4に通用する主砲を搭載することが、何よりも優先された結果が1944年9月に完成した三式中戦車チヌだったのです。

終戦時の三式中戦車

 試作車が完成した翌月(1944年10月)に量産に移され、一式中戦車の生産枠の一部が三式中戦車に回されました。物資不足の中、九〇式野砲を転用するという簡便も功を奏したのか、終戦間際には月産40輌を超えるところまできましたが、如何せん生産時期が遅すぎたため166輌しか(諸説あり)完成していません。
 三式中戦車チヌは、主敵と想定したM4シャーマンと戦火を交えることなく、本土決戦用として温存されたまま終戦の日を迎えました。

三式中戦車の実力はどうなのか

 それまでの日本軍戦車らしからぬ「戦車らしい砲塔」を備えた三式中戦車チヌは、一部からは「M4中戦車と互角に戦える実力があった」という評価を受けています。
 実戦を経験していない三式中戦車ですが、実際の実力はどうだったのでしょうか。あくまで推測になりますが、三式中戦車の能力について考えてみます。

三式中戦車の攻撃力

 三式中戦車の主砲は、野砲だった九〇式野砲をそのまま載せたものです。三式中戦車は実戦を経験してないものの、九〇式野砲の戦歴や評価を見れば攻撃力については想像ができるでしょう。
 この九〇式野砲は、硫黄島の戦いで対戦車砲として使用され、「M4中戦車に対して極めて有効なり」と評価されています。また同砲を搭載した一式砲戦車がルソン島での戦闘で、M4中戦車の正面装甲を約500mの距離から貫通し撃破していることから、先手さえ打てればM4に通用することは想像できるでしょう。

司馬遼太郎の広めた噂は本当なのか?

 三式中戦車に関する話になると必ず出てくる話が「九七式中戦車の装甲はヤスリでびくともしなかったのに、三式中戦車の装甲はヤスリで削れた」という、司馬遼太郎の「歴史と視点―私の雑記帖」に書かれたエピソードです。
 これについては諸説あり評価は定まっていないのですが、防弾鋼板の違いがあるうえ終戦間際で品質が劣化していた可能性も否定できません。ただ素材そのものより前面の装甲ですら50mmしかなく、側面や後方にいたっては20mm~25mmだったことを考えれば、M4中戦車に撃たれたときの脆弱性は確かです。

三式中戦車がM4シャーマンと戦闘したらどうなったか

 もし三式中戦車がM4シャーマンと戦火を交える可能性があったとしたら、それは本土決戦になった場合です。幸い本土決戦は避けることができ、さらなる犠牲を出さずに済んだのですが、もし1945年11月に予定されていたオリンピック作戦(南九州への上陸作戦)などあった場合どうなったのでしょうか。
 恐らくはまともな戦車にすらならなかったと考えられます。M4シャーマンは76.3mm砲を搭載したM4A3E8が多数参加し、さらにはM26パーシング重戦車(90mm砲搭載)の投入が予定されていました。後手を踏み続けた日本戦車の集大成といえる三式中戦車が、その事実を突きつけられるだけの結果となったでしょう。

まとめ

 車体とのアンバランスさはさておいて、初めて対戦車戦を戦えそうなスペックをもった三式中戦車です。そのため実力を過大評価されることがありますが、実際のところは後手の連続で時代の一歩後を追うような戦車だったのです。
 戦車運用の考え方も遅れ、技術の発展も遅れ、資源もなかった日本の敗戦を象徴するような日本戦車開発史の最後を飾ったのが、最後の量産型戦車「三式中戦車チヌ」でした。


主要参考資料
「機甲入門」 ・・・ 佐山二郎
「日本陸軍戦訓の研究」 ・・・ 白井明雄

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